『追悼碑撤去』
先日『あの日、群馬の森でー追悼碑はなぜ取り壊されたのかー』という映像作品を観た。
群馬県にある県立公園『群馬の森』内に設置されていた朝鮮人強制連行被害者の追悼碑をめぐるドキュメンタリー映画だ。
20年前、碑の設置を許可した群馬県は、碑の存在が今や『著しく公益に反する』という理由で、おおがかりな態勢を敷いて碑を取り除いた。この映画は、碑の設置から撤去までを当事者の闘いと碑の撤去を求める諸勢力の動きを絡ませながら丹念に追っている。
全般を通して碑の設置に尽力した中心メンバーの思いが強烈に伝わってきたのだが、『追悼碑はなぜ取り壊されたのか』というサブタイトルにあるように彼らの思いを打ち砕く圧倒的な力の存在を否応なく感じさせる作りとなっている。
碑の存在を問題視し撤去を求める右翼団体の行政に対する執拗な圧力、それに屈しあれこれと詭弁を弄しながら設置更新を不許可とした県、それを適法とした東京高裁判決・・・まさに政治と司法と民間が三位一体となって広大な公園内にひっそりと佇んでいた小さな碑に総攻撃を仕掛け、そして取り除いたのだ。彼らは、なにゆえ『碑』をそれほどまでに恐れたのか。
追悼碑には次のように刻まれている。 『記憶・反省・そして友好』
解説するまでもない。朝鮮に対する植民地支配とそれによって朝鮮人に与えた想像を絶する痛みに思いをはせ、それを記憶にとどめ深く反省することによってこそ真の友好がもたらされる、という思いが込められている。
彼らが恐れたのは、まずは過去のおぞましい『記憶』なのだろう。
自らが犯した行為がおぞましければおぞましいほどそれを記憶することは大きな苦痛を伴う。ましてやそのことと真摯に向き合い深く反省することとなればその苦痛と必要なエネルギーたるや想像に余りある。しんどいのはいやだ、すべてなかったことにしよう、そして(ここが肝心なところなのだが)そんな過去はなかった、ということにすれば、また同じことをくりかえすことができるじゃないか・・・まずはこんなところだろう・・・ともすれば歴史修正主義というものは『人間性の完全な喪失』に至る。いずれにしろ悲しき存在ではある。



第3回もお楽しみに!